「お金」(筆者は、「お金」「おカネ」「マネー」の表記を、かなりの程度意味区分して用いているが、今回はその定義には踏み込まない)は大事だ。
場合によっては、「命」そのものを意味するか、その代りぐらいに。
「『お金』とどうやって付き合っていきたいか?」は、経済生活を行う現代人の恐らく全てにとって、必要不可欠な命題となったのではないか。
少なくとも、「完全自給自足」「原始的物々交換」だけで経済生活を行える人々は、世界でも圧倒的少数派だろう。
(どこに、どれくらいの人々が、どのような生活をしているかは、詳しく調べてない。少々羨ましく、また興味あるところでもあるが)
筆者にとっても、「お金の問題」は例外ではない。
ただ、「どう付き合っていきたいか?」という命題への解は、全く明快ではない。
人は、死後までおカネを持って行くことはできない。
なおかつ、人は(自死やそれに類する方法を選ばない限り)「死期・臨終」のタイミングを正確な精度で予想することは殆ど不可能だ。
それは確かだ。
が、人は「死の直前」までお金が必要だ。また、子孫家族、あるいは会社法人などを持つ人は、その人たちにどのように財産資産を遺すかを、当然考えておかねばならぬ。
さらに、「お金」は単体で動くものではない。(物理的な人間存在も含めて)強固な「人間社会の制度」である以上、各種「法手続き」の煩雑さも避けられない。
なおかつ、現代は、超高齢化で仕事を定年退職後も、極めて長く、数十年という時間を過ごさなくてはならなくなった。
そうすると、単に「お金」だけでなく、「病気と健康」「時間の過ごし方」「人間・社会関係の作り方」までセットで準備しなくてはならないという、難解な連立方程式に直面させられているのだ。
「お金」は、「何が買えるか」と結びついての「どのような生活が可能か?」という「生き方・ライフスタイル」だけでなく、「どのような死に際を迎えたいか?」という「死に方」をデザインするものでもあると考えている。
(正確には、「死に方」は「生き方」の延長線上、その「終点」に位置している)
筆者も、「お金」との付き合い方は、多少は考えたり、実践した部分も少なくない。
が、現状は微々たるものと見るべきだろう。
「お金」には、従来より(知的な)「興味関心」はあるが、「執着」はさほどない。
(「真っ当に生活したい」との欲求はあるものの)何より「見栄」がない。
しかし、他方で「還元したい」としても「どうやって?」もまた不足している。そこが現状だろう。
マネーを取り巻く技術(FinTec等)も、恐ろしいスピードで進化を遂げており、追い付くどころか、理解するのも難しい側面もまた強い。
しかし、「お金」の主導権は、今のところ、AIなどではなく、圧倒的に「人間」自身が握っているとみるべきだろう。
そこでは繰り返される、そしていまや「何でもアリ」となった詐欺や利権仕事の巨額さに、「お金」について真面目に考えることの虚しさを感じたことも一度や二度ではない。
しかし他方でまた、そうした「詐欺師」たちのワザにも知的な関心を寄せもする、そうしたアンビバレンスにある。
真似をしようなどという馬鹿なことは考えないが、彼らは必ず、「ルール・制度」や「技術」等のスキをうまく突いており、その点で非常に「社会勉強」にもなるし、「自己防衛」の手立てを考える素材になるのだ。
「塀の上を走る」という言葉がある。
昔からあるのかもしれないが、筆者はジャーナリストの田原総一朗の本で知った。
「特別なネタを追うには、法とすれすれのラインを追いかけねば取ることはできない」という(テレビマン出身の田原ならではの)、危うくなおかつスリリングなスタンスと言えるだろう。
筆者は、別にコンプライアンスヲタクではないが、わざわざ「危ない橋を渡ろう」とも思わない。
そこまでの「カネの執着」がないのだ。「落ちているカネ」を見つけても、「どうしても拾いに行こう」と思うほどの「カネ好き」ではないのだと思う。
だから、「マネー投資」も「少しは」面白いが、本源的興味ではない。
いろいろな細かいテクニックや整備された知識体系はあっても、所詮は「マネー増殖術」以上ではない、と捉えている。
最終的な知的関心は、経済学的な関心なのだ。(金融論も当然含まれるが)
「マネー投資」の退屈さには、「皆がやってるのと同じことをしても面白みがない」というのも当然ある。
だから、まだ誰も行ってないような研究・実践を経済学において行うことを夢見ている訳だ。
こう余裕を持って考えられるようになったこと自体が、ある程度「安全地帯」にはいることを意味しているのかもしれない。
「が、その先は?」を慎重に吟味している。
「お金・マネー」というのは、必要不可欠のものであるが、「利権」「権力」と同じで、「不用意に手に入れる」ことが危険を伴う、「諸刃の剣」でもある。
「財産・資産」もまた、「自分や周囲を守る」ものであると同時に、維持には大小のコストもかかる。
「取り扱い方」を心得ていなくてはならないが、その経験・知識というだけでなく、「心構え・哲学」がまだ不十分なのだ。
「アブナイ橋」を渡ろうと思わないのは、そうした「哲学」的な側面も強い。
「後ろ暗い」ところがあると、あとから何らかの「善」「義」を行おうとしたときに、わだかまりなく行えないだろう。
「アブナイ橋」というのは、社会的・金銭的な「リスク」だけでなく、「心理的コスト」にもなり得る。
これもまた、シンプルだが一つの「マネー哲学」だろう。
「お金・マネー」は、自分を「大きく」してくれる。
VRでは、便利な「身体拡張」という用語が生まれたが、「お金・マネー」というのは、そのための伝統的な社会ツールとしてあるのだ。
もう一つの哲学として筆者が持っているのが、「操作可能性」ということだ。
「操作可能」な範囲でしか、自分の「お金」は扱わない。
「自己理解・管理不可能な相場」のお金を持ってしまうと、その刃が自分に向かってきて身を滅ぼしてしまう。
それは、「額の大小」ではないのだ。
「操作可能性」というのは、仮想通貨の時代には、少々アナログな発想かもしれない。が、「自分の知識・技術・財産の成長」を適切に加味したうえで生活を送りたい、という思想なのだ。
「分相応」と言い換えてしまえば、これまた地味・退屈であるかもしれない。
「破滅」せず、「そこそこ・それなりの・自分なりの」面白さを追求する、自分なりの「持続可能な」マネー哲学なのだ。