「解の無い世界」に生きている、という決まり文句があるが、自分はそれが嫌いというか、釈然としないものをずっと感じていた。
正論を言っているようでいて、どうも何か「逃げている」ような気がしてならなかったからだ。
「正解はない」にせよ、現代社会に生きていれば、常に「決断・判断・行動」を迫られるのが現実だ。
「解が無い」という言説には釈然としない一方で、ある程度合意というか、納得感のある部分もある。
大部分の人は、「最適解」より、「現実に妥協する」選択肢を、消極的に、あるいは強制的に「選ばされる」ことが殆どではないか、と想像されるからである。
そう考えてくると、「解が無い」に、なぜ釈然としないかの「答え」は見えてくる。
「自分一個人」に即して言えば、「とことん納得感の得るまで」考える、模索する上で「結論を出す」ことが出来るからだ。
それは「結果の如何を問わず」、「自分一個人にとっては」「解(あるいは解法=会の出し方)」である、ということなのだ。
逆に言うならば、世の人の大部分は、そのように「とことん納得感の得るまで」考える、模索するといったアクションは取らないし、取り得ないのではないか、と思っている。
そうなれば、「現実の中であり得る選択肢で、最も良さそう(というより最悪ではなさそう)なものを選ぶ」といった「妥協策」に落ち着くのは自然というものだろう。
「解の無い世界」は、やはり「逃げ」である、と考える。
なぜか。
「現実」は、「誰か」が出した「決断・判断・行動」の「結果」であるのは間違いないからだ。
自分は、「行動」を起こす前に、必ず「仮説」を立案し、「行動したうえでのシナリオやシミュレーション」を組み立てた上で実行に移す。
そうすると、当然ながら「仮説」とか、「シナリオ・シミュレーション」の通りに動くということはあり得ない。
自分だけでつくったプログラムでない限り、当然のことである。
「大筋で当たる」といったことはあり得るが。
しかし、想定と違う部分に対して、「どこがどう、なぜ違う・違ったのか?」を、絶えず検証する(=PDCA)に肝があることは言うまでもない。
それは「解が無い世界」に生きている、というのだろうか。
そうではない、と思う。
自分の求める方向性(志向性)においては、「出したい結果」、あるいはそれを実現するに至る過程を求めに行っているからだ。
学校で習う数学のように、「Aか、Bか」といった明確な「解」でないにせよ、「連続的、動的な世界の中で」、自分も同じく「連続的、動的な形の解」を求めに行っている、というべきだろう。
「100点満点」ということはあまりないかもしれず、だが「100点未満」というだけでなく「120点」など「100点より上」のことも起き得るだろう。
勝負事に関して、「負けに不思議の負けなく、勝ちに不思議の勝ちあり」という名言がある。
どんなゲームも「相手」がいる。
勝負事は生き物であり、「勝ち」か「負け」かという結果だけに注目するならば、「拾い物の勝利」ということはあり得る。
少なくとも、何らかの形で「結果」を求められるポジションの人であれば、「解の無い世界に生きている」という言い方はすべきではない、と考える。
「決断・判断・行動」の瞬間というのは、考えてきた「仮説」をぶつける時だ。
そこには「なぜ、その仮説をぶつけるのか?」「いつ、どのようにその仮説をぶつけるのか?」の理由付けや注釈を、明確に説明する責任が伴ってくるだろう。
そうでなければ、来たるべき「結果」に対する「検証」が出来ないからだ。
ただ、ある組織があったとして、皆が別々の方向を向いていて不統一である場合は、確かに「解の無い世界」という言い方が当てはまるだろう。
「志向性」の統一が成されないならば、そもそも「仮説」を、(成員内で)「有意に共有」できないだろうからだ。
「成員内で互いに足を引っ張り合う」か、(例えば二大政党制の国会など)情勢に応じて「別の解」が選ばれる、ということはあり得よう。
世界には、自分一人で生きているのではない。
「自分がコントロールできる現実」というのは、世界の非常に僅かな部分に過ぎない、ということは言える。
しかし、「変わりゆく世界」に応じて、「自分自身=自分の立てる仮説」も常に変化させ続けながら、現実にぶつかり続けていく。
「別解を出す」というのは、そのような意味合いだ。
「同じ世界=現実」を見ていたとしても、アクターによりポジションにより、「解の出し方」は全く異なる。
しかし、彼らが何らかのポジティブな「結果」を出していたなら、それは彼らなりの「解」であると言えるだろう。
「自分が自分である限りは、自分にベットして別解を出す」。
そう言い切れない限り、常に世から妥協を迫られ続け、「解の無い世界」を言い訳に、後悔や後退戦を迫られたり、また他者を傷つけたりすることを強いられざるを得ないのではないだろうか。
「とことん納得感の得るまで」考える、模索するアクションが担保される限りは、「結果の如何を問わず」、「別解」には確実に向かうことが出来るのだ。