ビッグデータ解析の市場トレンドが席巻して、10年前後が経過した。
データサイエンスやその人材育成の重要性が唱えられ、更に「リスキリング」のスローガンとも相まって、政府・大学・企業側でも、人材獲得や育成の動きがこの1-2年でも急速に活発化した印象がある。
自分も専門でもあるので、取り組みに関する記事をネットで見かけたときは、割とこまめに目を通すようにしている。
が、「既に目的と組織、方法論やインフラが整備されている企業以外は、意外と巧くいってないな」、あるいは「運良く上手くいった事例でも、機械学習が適用可能な、非常に局所的な、ミクロな成功例だけを取り上げているな」という印象がある。
これは、データ解析だけでなく、現状では、各種業界・作業のロボット・AI化に関しても、ほぼ同様のことが言えるのだが。
上手くいかないか、局所的な成功事例しか見られにくい原因は、複雑多岐にわたるので、ここで全てを論じる余裕はない。
しかし、筆者の実感では、「『論理(ロジック)』という根本が、多くの個人や組織に欠如しているし、トレーニングの術も殆ど知らない。そうすると、結局出来合いの講座(プログラミングやマーケティングデータ分析など)を受講する程度で終始するか、問題解決能力を持たず、組織自体には必要十分の要素が付かないまま、コンサルに踊らされカモにされてしまう」といった、冷ややかな目線を向けている。
尤も、データ解析にせよ、プログラミング人材にせよ、国が力を入れ始めて時が経たないと、そうした人材輩出~現場で結果が出るまでにまだ時間がかかってしまう、という過渡期の側面も強いわけだが。
ただ、人材が育成された場合でも、組織や社会の側に、彼らを受容して使いこなす、または、本当に「組織や社会でニーズのある」スキルの形態で身に付けられていなければ、「宝の持ち腐れ」か、日本のシステム開発現場がそうであり続けたように、「現場ニーズを殆ど満たさない粗大ゴミ」になってしまう可能性も少なくない。
つまり、「組織や社会が、データ分析やその人材に関して、適切な形でニーズやオーダーを提出できていないのではないか?」と、筆者は捉えているのである。
しかし、これも根本問題ではあるのだが、今回はやや本筋から逸れるので、別の機会に譲る。
筆者個人の感想としては、数学的な側面にせよ、プログラミング的な側面にせよ、「データ解析」というのは、(専門性は確かに高く、簡単とは言い難いが)「所詮はテクニックで、トレーニングすれば身に付く」という実感がある。
問題は、それ以前にあるのではないか、ということなのだ。
それが、「データ解析以前に、『論理(ロジック)』というものをしっかり習得できる素地はあるの?」という「問い」になるのだ。
実際のところ、作業目標が局所化=ミクロ化されていればいるほど、「データ解析、そのためのシステムやプロセス設計」というのは簡単に定式化できる。
が、それだと、単に「特定作業のための技術者」を導入する、という話に過ぎなくなる。
企業が直面している、経営・マーケティング・製造その他の、本質的な課題解決に使える可能性があるのに、そこには用いないの?という訳だ。
重要なポイントなのだが、「データ分析」というのは、目的ではなく、手段に過ぎない。
目的次第で、マクロな結果を出すことも出来れば、ミクロな結果を出すことも出来る。
そこは、(データの有無や取得・解析手法の問題は当然あるものの)オーダー次第なのだ。
これは当然のことだと思うのだが、日本では見落とされている場合が殆どという印象もある。
その点に、「どうも『論理(ロジック)』とか、その根本の理解が、社会総体に欠落しているな」という実感を持ってしまうのだ。
「データ分析を何のために行うのか?」という目的論や目標設定が最重要であるという趣旨と並んで、「分析されたデータを、どう活用するのか?」という、「結果を受けての分析、さらにその分析を評価し、どう行動に移すのか?」までの「過程設計」込みで、一続きの「論理」として成立する。
これらは、ビジネス上では、ある程度の理解やトレーニングが成されている部分もある筈だ。
が、ここに「データ分析」という極度の専門性が絡んでくると、「じゃあどうアプローチするのが正解なのか?」が途端に見えなくなってしまう。
それが分からなくなっているので、今はとにかく「データ分析人材」の争奪戦に走っている。そうした構図に見える。
ただ、悲観的な見方を提出すると、現代の日本企業や日本社会のトップ層では、「データ分析」に関する適切なオーダーを、「(コンサルに拠らず)自分の頭で」提出できる人々は、ごく僅かではないか、という印象を持っている。
(オーダー提出自体は、必ずしも専門的知識がなくても可能である)
能力面のスペックだけでなく、データやその共有のあり方というのは、「組織の民主化」を促す面がある。
退嬰的・旧弊的な組織では、そもそも、そうしたドライバが働きにくい構造となってしまうため、そうした知見やスキルが存在しても、「それを活用する」というのは、上層部にとっては(批判的、またはリスクのある挑戦的新規性や改革の提案を孕むため)「不都合な真実」を大なり小なり含んでしまう場合がある。
また、組織自体も、それを理解するだけでなく、その分析結果や評価を受容できるキャパシティを持っていなくてはならない。
今の日本社会や組織で、「データ分析人材」をミクロな作業に封じ込めようとするのには、上記のような、スペック面・風土面の多岐にわたる問題が存在しているためだ。
「データ」というクリティカルな武器を持たれて、経営陣に「下剋上」するような力を持たれてしまっては困る、という訳だ。
また、「データ分析人材」も、アクセス権や職務権限もそうだが、必ずしも、クリティカルなデータを持てるだけのフレームワークを持てるとは限らない。
そのためには、データ分析以外にも、多面的な知識が必要となるからだ。
(データ分析における)「論理」というのは、「目的」「目標設定」は無論だが、「結果、結果の評価」を受けて「行動」までを射程に収めたものであるし、そうでないと「ウソ」(=やるといってやらない)、少なくとも(「行動」に移される見込みがないなら)「単なる粗大ゴミ」と変わらなくなってしまう。
恐らく、「論理」というのは「頭の中で考える営み、または考えられたもの」というイメージを持たれているだろう。
が、実際はそうではない。
現在のデータ市場では、「データは宝の山」という言い方が成される。
マーケットとして見れば、基本的には間違った表現ではないが、「運用する組織や経営陣」にとっては、「諸刃の剣」という側面がまた強い。
「宝」があったとしても、そこに勇気をもって歩みだせるのか。
躊躇してしまう気持ちも分からないでもないのだ。